寺島ひかりのお通夜が終わったその夜から、花実は寝込んだ。

「なんでこうなることわかってて」

 出勤前の修一がベッドのサイドテーブルにポカリスエットとゼリーを置いた。

「怒った?」

「別に」

「呆れた?」

「いつものことですから」

 花実は横たわった状態で少し膨れる。

「まあ、あんなことあって、逃げるようにやめて、また古顔に会ったらきついわな。俺でも正直きつかったもん」

「はあ・・・まあ。病気が治ってないってことでしょう」

 花実はぽそぽそと言った。

「あんまり思いつめずに、焦らずに、だろうが。いつも東風先生に言われてるだろう」

 東風先生とは花実が通っている精神科の医師だ。修一はぽんぽんと花実の頭を撫でた。

「環境が変わったって、しばらくひきずることだってあるって言ってただろう。環境が変わりました、はいよくなりました、だったらそこら中に精神科はないわ」

「ん・・・」

 修一は花実の額にキスをする。

「じゃあ、行くな。食欲沸いたらなんか食べろよ。三日間くらい、ポカリとゼリーだけだろう」

「無理はしない。吐き気がするから、ちょっとまだ・・・」

「わかった。じゃあな」

「ん。行ってらっしゃい」

 修一は寝室を出て行く。しばらくして、玄関のかぎが閉まる音が聞こえた。

「あーあああっ」

 花実は叫んだ。

「ダメ嫁っ」

 瞬間、げほげほとせき込んだ。

「あー、もう。ちっきしょう」

 花実は自分の目に拳をあてる。ぽろぽろと涙が落ちてきた。

「こんっなすぐに弱くなるからだっ。ぽんこつっ」

 少し昔のことを思い出すと食欲不振、悪化すれば拒食、めまいなど。花実の生活はそれとの戦いだ。正直、専業主婦といってるが、炊事と洗濯くらいをかろうじてやってるくらいしかしてない。

 それ以外は、ほとんど寝てる、というか転がっている。こっちにきて、『役場の人間』という役割から逃れたので、顔見知りはいない。そのおかげで公園などを歩いていても噂になる心配はないので、たまに近くの公園を散歩している。

 しかし、それ以外はほとんど何もしてない。重い体で料理して、洗濯をしたら、もう体がもたない。夜も眠剤を使ってしっかり寝てるのに、眠くて仕方ないのだ。ひたする寝てる、という感じだ。それが1年近く続いている。

 何か変わらなきゃ、とは思っている。しかしその扉が見つからないのだ。何から手を付けていいか分からない。

 あんなに大好きだった本を読むこともできない。音楽は耳を滑り、騒音に聞こえる。テレビは画像が鮮明すぎてつらい。

 いわんや、昔と同じような職には絶対につきたくない。文化財の世界は狭い。県内ではもう花実の名は知られているはずだ。むろん、花実自身に戻るつもりはない。

 いつも現場をしながら昔のことを思い出すなんて、ぜったい嫌だし、何よりも自分が文化財、もっといえば考古学という仕事に向いているかわからなくなっていたのだ。

 花実は考古学が好き、だとは思う。しかし、仕事となるとそれだけではすまない。事務処理なども出てくるし、ただ現場の指示をしながら楽しく作業員の人達を仕事をしているだけではだめだった。

 その現実は分かっていた。臨時職員もしていたので、そういう仕事もあるのだと先輩の職員から言われてた。

 その覚悟は、できていた。

 しかしふたを開けてみれば、それだけでは話はすまなかった。

 N町初の女性文化財技師。しかも1次試験だけなら、事務系もぶっとばして1位。下馬評が大外れの花実の合格。

 本当は、誇らしかった。誰も予想だにしていない花実の合格に周囲は驚いたらしい。

 花実は期待していた。どんな世界が待っているのか。どんな現場ができるのか、どんな人達がいるのか、楽しみだった。

 しかし現実は花実をぶん殴った。

 仕事、主に考古学関係のことでは、分からないながらも勉強し、上司の話を聞きながら、必死でこなしていた。
 
 あまり慣れていない書類仕事も遅いが、こなしていた。

 それならふつうなのだが、N町文化財課のヒエラルキーが特殊すぎた。

 あと10年ほどで停年間近な二人の薬田と五十鈴、花実より5歳上の園田、そして花実の小さな部署だ。

 年長者が二人いるが、この二人の方針はまるきり違う。

 薬田は出世欲が強く、人脈作りに必死で、早く上へ早く上へ、としているのが見てわかった。

 五十鈴は職人肌で、出世など興味なく、あくなき探求を繰り返していた。

 園田は五十鈴を慕っており、表面上はどちらにもつかない、という風をみせていた。

 そのバランス関係に花実は気づくのに時間がかかった。

 そして3人の間をうまく立ち回れず、どんどんと心が病んでいった。

 3人とうまく意志の疎通ができず、いつ怒られるか、ミスをするか、誰に相談すればいいか、など色々と考えてだんだん孤立していった。

 小さな部署での孤立は花実はつらかった。皆が楽しそうに笑っているのに、笑えない。孤独な状況が続いた。

 孤立感が深まり、怒られ、落ち込んでミスが続き、更に怒られる、という負のスパイラルに入りこんだ。

 仲が良かった修一と付き合うようになったが、花実がどんどん落ち込んでいくさまを見て、見ていられなくなり、精神科に連れて行った。

 双極性Ⅱ型

 と診断された。いわゆる躁鬱病だが、躁になってもそれほど明るくなく、鬱の方がひどかった。そして躁鬱の厄介なところは、躁になってから、鬱になるところだった。

 通常、鬱病なら、感情の平坦部分を0とするとそこから落ち込む。
 
 しかし躁鬱病だと、躁になった状態を5とし、そこから鬱に落ち込むので、躁から鬱の感情の幅が鬱病より大木のだ。